茅ヶ崎の海の近くにある静かな旅館での、四季折々を綴ってゆきます。
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日本最古のサーフボード

茅ヶ崎館の初代は、もともと長く日本郵船の船乗りとして、世界各地を航行していました。
そして50歳を過ぎてから、憧れの土地茅ヶ崎にて、当時はベンチャー企業だったとも言える、海浜旅館の経営に着手しました。

世界各地で様々な物事を見聞してきた初代は、柔軟な発想のアイデアマンでした。
旅館で狂言や落語を催したり、宿泊客向けに海のアクティビティを開発したりと、まだ電話線も引かれていないいない寒村に客足を向けるべく、様々な知恵を絞りました。

初代のあとに旅館を継いだ二代目は、町で一番最初に自家用車やオートバイを乗り回したり、まだラジオが市販されていなかった頃にラジオを自分で組み立てたりと、かなりのアイデアマンかつモダンボーイでした。

そんな、嗅覚が鋭く先進的だった初代と二代目が、海のまち茅ヶ崎にとっても、日本のサーフィン史上にとっても、重要な財産となるであろう、あるものを残してくれました。

それが木製のサーフボードです。

この、1920年代のハワイ製コアボードは、当時ハワイで流行し始めていたサーフィンのことを知った二代目が、茅ヶ崎でもやってみようと、ハワイから輸入したのです。
これほど古いサーフボードは、今となってはほとんど残っていないらしく、「日本最古のサーフボード」として、現在も茅ヶ崎館にて保管されています。

余談ですが、このサーフボードは、しばらく庭のベンチとなっていたそうです。
偶然いらした、サーフィンに詳しいお客様がそのベンチをご覧になり、「これはかなり古いサーフボードでは…」と気づいて下さったとか。

そんな日本最古のサーフボードが、なんと7月5日放映の「なんでも鑑定団」に登場いたします。
五代目が番組に登場し、また茅ヶ崎館についても番組内で紹介される予定です。
よろしければご覧ください。

放映予定
「開運!なんでも鑑定団」
7月5日20時54分〜
TV東京系列 

関東大震災の爪あと

明治32年創業の茅ヶ崎館は、大正12年に起こった関東大震災を経験しています。

地震が起こったのは、大正12年9月1日の、ちょうど正午頃。
お昼ごはん時で、火を使っていた場所も多くあり、それに強風があいまって、大規模な火災が起こったそうです。
茅ヶ崎のあちこちでは、地下水が噴水のごとく吹き上げ、建物のほとんどが全半壊。
馬入川の鉄橋も落ちてしまったのでした。

茅ヶ崎館は、幸い火災は免れたものの、建物はぺしゃんこに倒壊。
建物内には、避暑に訪れていたお客様がいらっしゃいましたが、梁の間にいたのが幸いし、奇跡的に怪我一つなく救出されたそうです。

そのとき唯一倒壊を免れたのが、お風呂場です。
茅ヶ崎館の大浴場には、今でも関東大震災のときに出来た亀裂が生々しく残っています。

当時館主だった初代・森信次郎は、敷地の一部を売って資金を作り、がれきとなった茅ヶ崎館から、現在も残る茅ヶ崎館の建物を再建したのでした。

震災の経験を踏まえて建てられた現在の建物は、免震の対策がとられていたため、今回の震災でもまったく壊れず、さらにはお皿一枚たりとも割れませんでした。

もし自分の建てた家がぺしゃんこになってしまったら・・・。
自分の営むお店や旅館がぺしゃんこになってしまったら・・・。
資金や、再建の手間などを考えると、さっさと別の場所に引越したり、あきらめて別の商売を始める人も少なくなさそうです。
そこで踏ん張って、同じ場所で一から建物の再建を決めた初代を心強く感じます。
その決断がなければ、茅ヶ崎館を舞台にした、さまざまな方々との出会いも生まれなかったのですから・・・。


写真:関東大震災時に出来た亀裂が生々しく残る大浴場

茅ヶ崎館ものがたり 番外編

私はこれまで、日本の南から北まで、幾つかの土地で暮らしてきましたが、場所ごとに空気や匂い、人間など本当に様々。
雪国には雪国の、南国には南国の、独自の文化があります。

中でも茅ヶ崎は、創作活動を生業あるいは趣味とする方々が多く在住し、活発に活動していることに驚かされます。
ここには何か、創作意欲を刺激する、独特の磁場があるのだろうか、と常々興味深く感じております。

五代目当主に聞いてみたところ、それを紐解くには、別荘地として発展してきた茅ヶ崎の歴史に、ヒントが隠れているのではないか、とのこと。

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明治時代より、湘南地区では、別荘や宅地の分譲が盛んになり、政財界や文化人など多くの人々が居を構えました。

茅ヶ崎にも、市川団十郎や川上音二郎・貞奴の別荘を筆頭に、歌舞伎芸能役者・文人・脚本家が集まり始めます。
また茅ヶ崎館も、松竹の「ホン書き宿」として、小津安二郎監督をはじめ、多くの脚本家が逗留いたします。

都心から一時間。
山や海に囲まれ、程よく開放的で、程よく閉ざされている。
また、区画の境目が緩やかで、空間的なゆとりもある。
時間の流れもゆったりしている。

そこに、海外で見聞を重ねてきた方々や、一流の芸術に触れてきた方々の知恵が持ち込まれる。

外からの刺激を受け入れる自由さのある茅ヶ崎で、既成概念や慣習にとらわれない、新しい考えが刺激となって加わり、独自の文化が醸成されているのでは。
そのように感じます。

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茅ヶ崎館の創業者・森信次郎も、元の出身は愛知です。
船乗りとして、世界中を渡り歩いてきた信次郎は、旅館運営に際し、既成概念にとらわれず、新しいアイデアをどんどんと採り入れてきました。
その自由さは、現在の茅ヶ崎館にも受け継がれていると感じます。

茅ヶ崎館ものがたり5 少年勝行と“理想の男性”小津安二郎監督
小津安二郎監督が当館に滞在されていたのは、後に四代目となる勝行の少年時代でした。

幼い頃に実の父親を亡くし、そして7歳から25歳までの多感な時期を小津監督と共に過ごした勝行にとって、監督はまさに「理想の男性像」そのものでした。

現在でも、「早春」のロケの際に撮影した監督とのツーショットを何より大事にしています。



小津監督の映画の中では、子どもたちが生き生きと動き回っているシーンが印象的ですが、小津監督は子どもの仕草や台詞を考える際、勝行ら兄弟の動きややりとりを参考にしていた、というエピソードもあります。

四代目は、現在の茅ヶ崎館の関係者の中で唯一、生前の小津監督を知る者です。
そんな四代目が、小津監督との思い出を綴った貴重な原稿がございますので、ここにご紹介いたします。

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「小津安二郎先生の思い出」 森勝行

小津安二郎監督が、初めてお見えになったのは、昭和12年と、最近の調べで分かってきました。先生が、日中戦争に出征される頃、7歳だった私は「お土産は、何がいいかね」と聞かれて、「切手がいいです」とねだった記憶があります。一緒に風呂に入った時のことで、「ザーッ!」と湯が溢れ出る大きな背中でした。やがて、14年無事に戦地でのつとめを終えて帰還されました。茅ヶ崎館で昭和17年の『父ありき』当時の「二番」で、脚本家仲間であった柳井隆雄、池田忠雄の両氏と碁盤を囲んでいる写真が残っています。後の太平洋戦争では、陸軍報道映画班員としてシンガポールに滞在中、『風と共に去りぬ』等をご覧になったそうです。

戦後、茅ヶ崎館での執筆活動は、『長屋紳士録』『風の中の牝鶏』『晩春』『宗方姉妹』『麦秋』『お茶漬けの味』『東京物語』、昭和31年封切りの『早春』迄です。良きコンビの野田高梧氏と海岸への散歩が構想を練る間の日課でした。来客も多く、ご自分で酒の肴を料理して持て成すのがお得意でした。煮詰まったすき焼きにカレー粉を加えた「カレーすき焼き」の洗礼は、小津監督の親しい客人なら誰もが受ける最上級のサービスなのです。田中絹代、池部良、高峰秀子さんは、間違いなくお付き合いされられた?方々です。それらの痕跡は「二番」の天井に油染みとして残っています。

普段の先生は、優しくて子供がお好きでした。弟が生まれた際には、白いレースのケープを頂いたこともあります。或るときは、菅原通斉ご夫妻が大きな外車で、湘南道路(当館の裏木戸側)までお迎えに来られました。先生は「今日は中華だ!」とニコニコしてお出掛けになりました。昭和34年の『浮草』で、茅ヶ崎ロケーションの為に宿泊された記述が、日記にも見られます。

毎年、秋の芸術祭に出品されて、少しすると電話がかかり「お!勝ちゃんか、明日から頼むよ」と次回作の為に、茅ヶ崎へ帰ってこられた小津先生。いつも暖かく接して下さったことなどを思い出します。
(原文ママ)

<『小津安二郎生誕100年記念誌』(茅ヶ崎市企画部文化推進課)用の原稿より>
茅ヶ崎館ものがたり4 小津安二郎監督

二代目・信行が亡くなったのは、後に四代目となる息子・勝行がまだ幼い頃でした。
信行の妻・つねは、信行亡き後、従兄弟の亘と再婚し、亘が茅ヶ崎館の三代目となりました。


その頃は夏になると、お馴染みの家族が、さながら別荘のように、毎年同じ部屋に滞在し、親戚が一度に集まったように、たいそう賑やかだったようです。

子どもたちは朝のうちに宿題を片付けると、旅館から目と鼻の先にある海岸に、誘い合って泳ぎに行っていたとか。

小津安二郎監督が初めて茅ヶ崎館を訪れたのもこの頃です。
小津監督が初めて当館にお見えになったのは、昭和12年、外地に出征する前のことでした。

終戦の翌年、監督は再び茅ヶ崎に“帰って”来られ、以後十年間、一年の半分以上を茅ヶ崎館で過ごし、数々の名作の脚本を生み出すのでした。

小津監督が当館で滞在していたのは、「二番」のお部屋です<写真>。
玄関を入って中庭の池のところで右に曲がり、突き当りをさらに左折、階段を上がった「中二階」の棟にあります。

東南に窓があり、庭を臨む海寄りの角部屋。
お手洗いもお風呂もなく、何の変哲もない八畳一間の質素なお部屋ですが、この部屋で、『父ありき』『長屋紳士録』『風の中の牝鶏』『晩春』『宗方姉妹』『麦秋』『お茶漬けの味』 『東京物語』『早春』等、数多くの名作が生み出されました。

年間の大半を過ごしていたため、宿の食事だけでは物足りなくなってしまった小津監督は、ついには調理用具一式を揃え、部屋で調理を始めます。

「小津コック長」の誕生です。

小津コック長の特製メニューとしては、煮詰まったすき焼きにカレー粉を加えた「カレーすき焼き」が有名です。
松阪牛で知られる松阪で育った小津監督にとって、すき焼きはお手のものだったのでしょう。
ねぎや糸こんにゃく、豆腐、牛肉が御節の重箱のように見事に仕分けられたすき焼きは、小津監督の映画のように、整然とした美しさであったとか。

今でも二番のお部屋の天井には、小津監督が料理をされていた痕跡が、天井の油染みとなってしっかりと残っております。

小津監督が当館を定宿とされていたのは、大船に松竹の撮影所があった時代。
この時期、茅ヶ崎館には、しょっちゅう松竹の脚本家や監督が泊り込み、時には陣中見舞いの役者も現れ、大変賑やかだったようです。

小津安二郎監督が当館に残してくださったエピソードは、あまりにたくさんありすぎるので、折に触れてご紹介していく予定です。

参考文献 石坂昌三『小津安二郎と茅ヶ崎館』(新潮社)

茅ヶ崎館ものがたり3 モダンボーイ・信行

震災後、初代・信次郎の息子・信行が茅ヶ崎館を継ぎました。
二代目は、富士山麓・御殿場口の旅館「松屋」の親戚の娘つねと結婚いたしました。
つねが嫁入りした頃、茅ヶ崎館の庭には、震災で倒壊した旧茅ヶ崎館の材木が山のように積まれいたとか。
震災後、建て直したのが、現在の「茅ヶ崎館」の建物です。

二代目は、町で一番最初に自家用車やオートバイに乗り回した、モダン・ボーイでした。
新し物好きで、機械いじりが大好きだった二代目は、少しでも時間ができると、愛車の手入れやラジオの組み立てに精を出しました。

石坂昌三さんの『小津安二郎と茅ヶ崎館』(新潮社)に、二代目のエピソードがいくつか書かれています。
まだラジオが市販されていなかった時代、なんと二代目は、ラジオを自分で組み立てて作ってしまったとか。
「茅ヶ崎館車庫」と「茅ヶ崎ラヂオ研究所」の看板を並べ、少しでも時間が出来ると、愛車の手入れやラジオの組み立てに精を出していたそうです。
あるときは秋田からラジオの注文が入り、オートバイを飛ばして秋田までラジオを配達しに行った、というエピソードも残されているそう。
器用だった二代目は、さらには「旅館の建物くらい建てられる」と、なんと一棟建ててしまったそうです。ただ、素人大工だったため、「見かけこそ立派でも、人が歩くと揺れて使い物にならなかった」とか。

頭が良く、父親を上回るアイデアマンと期待された二代目でしたが、昭和六年、三十三歳の若さで急逝しました。
初代・信次郎は大変落胆し、その二年後、八十六歳で生涯を閉じたのでした。
初代の妻・とらも、翌年八十一歳で亡くなりました。

茅ヶ崎館ものがたり2 アイデアマン・信次郎
初代・森信次郎が茅ヶ崎館を創業したのは明治32年。

 

前年の明治31年には茅ヶ崎駅が開設し、茅ヶ崎にも機関車が停まるようになりました。
また、まもなく東洋一の療養所・南湖院も開業。さらには海水浴がレジャーとして広まりつつあるなど、寒村だった茅ヶ崎も徐々に活気付きつつありました。


しかし、それでもなお、茅ヶ崎で宿を経営することは非常に難しく、商売の道のりは決して平坦ではありませんでした。

 

初代・信次郎は、まだ電話線も引かれていない漁村に、いかにして客足を向けさせるか、様々な知恵を絞りました。

 

たとえば初代は、開業や一周年記念の時には、狂言や落語を催すなど、様々な文化活動を行いました。

旅館を文化の発信拠点とし、地域に貢献していくという営業スタイルは、現在の茅ヶ崎館にも受け継がれています。

 

また、海の近くという地の利を活かし、海でのアクティビティにも精を出しました。

あるときは平島までいかだを繋げて渡しの橋を作りました。残念なことに土用波と台風によって流されてしまったそうですが…。

 

初代は、茅ヶ崎館だけでなく、茅ヶ崎という町を活性化させるためのアイデアも数多く出しました。

ある日、庭の植木を採取しに、町の北東にある堤の山を訪れた初代は、大岡越前守一族の墓を発見いたしました。

浄見寺の草むらに埋もれ、訪れる人もなく荒れ果てていた墓を見た初代は、当時の町長に「大岡祭」を提案します。

このとき初代が提案した祭は、今でも「大岡越前祭」として続いています。

また茅ヶ崎海水浴場での花火大会実現にも奔走し、現在の「サザンビーチ花火大会」の礎を築きました。

 

このように、持ち前の遊び心で様々なアイデアを出し、茅ヶ崎館だけでなく、町の発展にも尽力した初代でしたが、商売の道のりは、決して平坦ではありませんでした。

 

一番の試練は、大正1291日に起こった、関東大震災でした。

マグニチュード7.9の大地震の震源地は、相模湾沖の海底。

町の大多数の家が全半壊し、馬入川鉄橋も落ちました。

 

砂丘の木造建だった茅ヶ崎館も例に漏れず、最初の一撃で、風呂場を残し、全壊状態となりました。

初代は、再建資金の捻出のために、敷地の三分の一をドイツ人に売却し、再度旅館を建て直しました。また震災後、稼業を息子の信行に譲りました。

 

ちなみにこの地震によって、海岸から約一キロ沖の岩礁が隆起し、烏帽子岩が出現し、のちの茅ヶ崎の名所となりました。

また下町屋の田んぼからは、巨大な切り株が現れました。これが昔の馬入川の橋脚と判明し、後に国指定の「史跡名勝天然記念物」となったのです。


参考文献

石坂昌三『小津安二郎と茅ヶ崎館』(新潮社)

茅ヶ崎市企画部文化推進課『小津安二郎生誕100年記念誌―巨匠ふたたび―』

茅ヶ崎館ものがたり1 創業者・森信次郎
茅ヶ崎館の創業は、今から百年以上前の、1899年(明治32年)624日に遡ります。

創業者・森信次郎は、愛知県稲沢市に生まれました。村の寺子屋で学んだのち、岩崎弥太郎の日本郵船に入社。御用船の機関長として過ごしました。

初代は、船で相模湾を通るたびに茅ヶ崎の松原を望遠鏡で眺め、引退後はあそこで暮らそうと、洋上で夢を膨らませていました。

 

引退後、洋上から眺めていた海岸を歩いていた初代は、海の近くで築10年の旅館を見つけました。ちょうど売りに出ていたその旅館を居ぬきで購入。海風で傷んだ建物を修復し、人材も揃え、明治32年、茅ヶ崎館として開業いたしました。

この頃町内で電話に加入していたのはわずか6軒。茅ヶ崎館の電話番号は三番でした。

(一番は郵便局、二番は南湖院でした。)

 

この頃の茅ヶ崎は、明治31年に茅ヶ崎駅が開設されたばかり。地名の「茅ヶ崎」の通り、駅の周りは茅の茂る湿地と芋畑でした。創業当初はまだ海水浴客も現在ほど多くなく、相模川河口の半漁半農の小さな寒村に過ぎませんでした。

 

古来、水練は、戦場での働きに役立つための武芸の一つであり、一般庶民には海水浴の習慣はありませんでした。

明治18年に、大磯に日本初の海水浴場が開かれてから、鵠沼・江ノ島・片瀬・逗子・葉山などでも相次いで海水浴場が開設されましたが、当時の主な利用客は、東京や横浜に住む裕福な人々のみで、庶民がレジャー目的で利用することはまれだったようです。

 

しかし明治20年代初頭から明治30年代初頭にかけ、湘南にある海岸各所に海水浴場開設と、それに伴う海水旅館創業が相次いでおり、茅ヶ崎でもその流れを受け、東京から来る海水浴客を対象に、海水旅館の開業が始まっていました。

当時の旅館業は、今でいうベンチャー企業とでも言えましょう。

 

開業時の主な客は、上記のような海水浴客のほか、明治32年に開院した、東洋一の結核療養所「南湖院」の見舞い客でした。

 

明治41年には、文豪・国木田独歩が南湖院に入院しました。

独歩が入院した際、田山花袋や真山青果など、様々な文人たちが、茅ヶ崎館に宿泊しながら独歩を見舞いました。

当時真山青果は、読売新聞に、「独歩氏の近状を報ずる書」を掲載しています。

明治416月に独歩が荼毘に付すと、茅ヶ崎館で法事の席が設けられました。

 

こうして独歩の結核療養〜死を巡って、小さな寒村に過ぎなかった「茅ヶ崎」の名は全国に知れ渡り、茅ヶ崎館もまた、南湖院のおかげで商売が軌道に乗りました。


参考文献

石坂昌三『小津安二郎と茅ヶ崎館』(新潮社)

茅ヶ崎市企画部文化推進課『小津安二郎生誕100年記念誌―巨匠ふたたび―』